ABOUT MYSELF

  • 秋田で生まれ、秋田で育つ
  • 日本代表主将としての経験
  • 秋田に戻り、県庁職員に
  • 県庁で産業振興に尽力
  • 一県庁職員から副知事へ
秋田で生まれ、秋田で育つ

秋田の農家に生まれ、野球と共に育ちました

生まれ育った秋田市豊岩にて兄二人と
秋田高校では野球部主将として甲子園を目指した

秋田の農家に生まれ、野球と共に育ちました

私は、秋田市南西部の豊岩で、農家の三男として生まれました。近くを雄物川が流れ、太平山を望む田園集落。まさに秋田の原風景ともいえるような土地で、子どもやお年寄りを地域で見守り、育て、支える、穏やかで思いやりに満ちた地域でした。

もの心がついた頃には、既に二人の兄と一緒になって野球に打ち込んでいました。いちばん上の兄が甲子園を決めた試合を観戦し、選手一人ひとりがチームの勝利のために全力を尽くす姿に強烈な感動を覚えました。甲子園出場が夢になったのはこのときです。その夢をくれた兄は60歳という若さで他界しましたが、今でも身近なヒーローとして尊敬しています。

豊岩中学校を卒業後、兄の背を追って秋田高校に進学。受験勉強は大変でしたが、兄と同じユニフォームを着て甲子園に出場したかったのです。1学年下には、後にプロ野球で活躍し、今は参議院議員を務める石井浩郎さんもおり、共に野球に打ち込みました。3年では主将を任され、全員野球で甲子園出場を目指しました。高校最後の公式戦となった夏の県大会準々決勝、同点に追いついた9回2アウト2塁の場面、私は1球も振らずにフォアボールを選び、結果としてチームは延長戦で敗れ、夢は叶いませんでした。

押せ押せムードのなか、「なぜもっと積極的に向かえなかったのか」、「主将として責任を持つ覚悟が足りていなかったのではないか」、今でも胸に刺さるものはありますが、この場面に真剣に向き合ったことが、その後の人生の転機にもなりました。

日本代表主将としての経験

大学野球、日本代表主将としての経験

慶応大学4年次には東京6大学リーグで優勝(中央)
日米大学野球選手権日本代表主将として参加

その後、2年間の浪人を経て慶応大学に進学。舞台は東京6大学野球へと移りました。浪人中のブランクを取り戻そうとトレーニングに打ち込みましたが、練習中に左足首を骨折。レギュラーが見えはじめた3年春には持病の椎間板ヘルニアが悪化するなど怪我に泣かされた大学野球でしたが、「高校最後のあの打席で野球人生を終わりにするわけにはいかない」と治療と肉体改造に取り組み、3年次には首位打者を獲得、主将を任された4年次にはリーグ戦を優勝し、全国制覇も果たしました。

日米大学野球選手権では、後にプロ野球で活躍する古田敦也さん、野村謙二郎さん、長嶋一茂さんらがいるなかで主将を任されました。アメリカとの最終戦、1点を追う場面で回ってきた9回裏2アウト2塁3塁の場面、甲子園予選を思い出しました。結果は、3球目を振り抜いてサヨナラ本塁打。高校での後悔に向き合ってきたことが、最高の結果につながりました。

出迎えてくれたチームメートの笑顔は一生の宝物で、主将という重責をプレーでも果たすことができた経験は人生の土台にもなりました。そして、2018年に放送されたテレビ番組で、当時のチームメートだった長嶋一茂さんが、過大にも「人生で衝撃を受けた“天才”」として名前を挙げてくださいました。そのなかで、プレーと合わせてリーダーシップや人柄を評価していただき、とても光栄でその評価に恥じない人間にならなければならないと気持ちを新たにしました。

私は、中学校、高校、大学、全日本大学野球と、こと野球においては主将を務めてきました。「自分にその資質があった」、「人よりリーダーシップがある」などと思ったことはありませんが、主将として大切にしてきたことがあります。それは、「人の目にとまりにくい、目立たない貢献を大切にすること」、そして「嘘のない感謝をきちんと伝えること」です。これは、野球というチームスポーツから学んだ人生の教訓として、その後の人生でもずっと大切にしてきました。「自分は人に恵まれている」と思うことがありますが、この教訓がもたらしてくれているものだと思っています。

秋田に戻り、県庁職員に

秋田に戻り、県庁職員として働く

当時の新聞報道と大学日本代表メンバーとの写真
秋田のために働きたいという思いで県庁職員に

秋田に戻り、県庁職員として働く

大学卒業時には、プロ野球や大手企業という選択肢もありましたが、秋田に戻る選択をしました。時代は高度成長期。好景気に沸く日本経済、大企業だから用意できる大きな舞台に魅力はありましたが、「日本経済の礎には地方があり、ふるさとのために働きたい」という思いが強かったからです。私を育ててくれたのは秋田の水であり、空気であり、米であり、人であり、何より秋田のことが好きだったことがこの選択の基にありました。

当時、父が起業し、兄もそれを支えていました。その会社に入社するという選択もありましたが、私は仕事の舞台に秋田県庁を選びました。大学進学で県外に出た学生は、職種や条件の選択肢が少ないこともあって、秋田に戻りにくい環境がありましたし、いまだにそうした面があることは否めません。「県外に出て学んだこと、得た知識や技術を秋田で発揮できる環境をつくりたい」。これが秋田県庁を選んだ動機でした。

県庁では一兵卒から鍛えられ、基礎自治体である市町村の振興があってこその県政という姿勢で働いてきました。いまからちょうど30年前、阪神淡路大震災の際には、秋田県の支援隊の一員として現場支援に赴きました。野球で鍛えた体力に自信もありましたし、被災者のために何かしたいという思い一つでした。

そこで目の当たりにした大規模災害の脅威。建物の倒壊や火災。家族を失った住民の悲嘆にくれた表情、被災者を一生懸命に救出している消防・警察・自衛隊員、怪我人の手当てに奔走する医師や看護師、助け合い、励まし合う人々の姿を脳裏に焼き付け、防災・減災や非常時の災害対応など、行政の基礎は住民の生命と財産を守ることだと、改めて思いを強くしました。

県庁で産業振興に尽力

県政全般を把握して、産業振興で成果を

財政部門や経済産業部門などでキャリアを積む

県政全般を把握して、産業振興で成果を

経験を重ねるなか、県政全般を把握しなければならない財政部門や秋田の発展を担う経済産業部門などでキャリアを積みました。財政部門では、予算や議会対応を通じて、暮らしや事業を支えるインフラ整備や環境、食を支える農林水産部門、健康を支え困ったときの支えになる福祉・介護サービス、文化振興、後に専門性を高める経済産業部門など、多くの事業に関わらせていただきました。

そして、2016年に産業集積課長に就いてからは、企業誘致活動や再生可能エネルギーの推進に尽くし、2016年以降の誘致企業数はそれ以前10年間の2倍以上に、2024年の再生可能エネルギー発電量は2016年から約2倍にまで増やすことができました。これは、決して私個人の実績ではなく、それまで関わった方々、県庁や市町村そして民間事業者の成果の現れですが、その一端に貢献できたことはうれしく思っています。

一県庁職員から副知事へ

県庁職員から副知事へ

スタートアップ認定企業の皆さまと

県庁職員から副知事へ

2021年に副知事に指名いただいてからは、「県民の安心も安全も、子どもたちの健やかな育ちや学びも、雇用や所得があってこそ」という信念の下、経済産業部門はもちろん農林水産部門、さらには県を挙げて取り組む人口減少対策に力を尽くしてきました。その結果、担い手不足が深刻であった農業分野において、2023年の新規就農者数を1989年以降最多の275人にまで増やすことができ、人の流入と流出の差である社会減を副知事就任前から約半分にまで減らすことができました。長年取り組んできた再生可能エネルギー分野においては、秋田は再生可能エネルギーの先進県になりつつあり、いまは約50万㎡規模の再エネ団地の整備を進めるまでになりました。そして、新たに取り組んだスタートアップ支援では、初年度の2024年に4社を認定、いずれも上場を目指して活躍いただき、県も引き続き支援しています。

いま、秋田は確実に変化しはじめています。未来につながる変化を確かなものにしていくために、県庁一丸、市町村を含む行政一丸、そして民間事業者の皆さまと一緒に、さらに県民お一人おひとりの力をお借りして、秋田一丸となって強い秋田をつくっていきたいと考えています。

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