1963年 | 秋田市豊岩生まれ |
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1979年 | 秋田市立豊岩中学校卒業 |
1982年 | 県立秋田高校卒業(硬式野球部主将) |
1988年 | 慶応義塾大学法学部政治学科卒業 (体育会野球部主将) |
3年 | 秋首位打者ベストナイン |
4年 | 日米大学野球日本代表チーム主将 最終戦でサヨナラ本塁打 メンバーに長嶋一茂、古田敦也、野村謙二郎など |
1988年 | 秋田県庁入庁 土地改良事業、看護師養成、道路河川公園管理、観光振興、企業誘致、中小企業支援、予算編成等に従事 |
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2020年 | 産業労働部長 |
2021年 | 秋田県副知事就任 |
2024年11月 | 秋田県副知事退任 |
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秋田市南東の農業集落で、代々続く農家の三男として生まれる。父は秋田市を拠点に事業を展開する猿田興業グループの創業者である。
「豊岩は近くを雄物川が流れ、水田が広がる農村地帯で、子どもやお年寄りを集落で見守り支えるような、穏やかで思いやりに満ちた世界であったように記憶しています。私にとっての秋田の原風景ですかね。」
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「物心がついたころから既に、二人の兄と一緒になって野球をやっていたました。一番上の兄(五知夫)が秋田高校の甲子園出場を決めた試合を観戦し、強烈な感動を覚えました。兄や選手の姿を見て甲子園に行くことを目標としたのはこの時です。五知夫が6年前に60歳の若さで亡くなったときは、涙が止まりませんでしたね。」
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秋田高校まで往復20km強を毎日自転車で通い、厳しい練習を終えて家に着くのは常に午後10時を回っていた。この時の監督は大久保正樹氏、一学年下の石井浩郎氏が投手で4番、猿田和三は三塁で三番だった。
「1.2kgの竹バットを“やめろ”と言われるまで振り続けさせられたことが、脳裏に焼き付いています。」(本人)
甲子園出場の目標は叶わなかった。
「高校3年の夏、県大会準々決勝での対秋田南高校戦、9回に同点に追い付いて、なおも2死2塁の逆転の場面で私が打席に入りました。結果は四球で4番の石井につなげましたが、延長戦でチームは敗れました。この場面、打席に入る前から四球が脳裏をよぎっていました。押せ押せムードの中、なぜ1球も振らずに四球を選んでしまったのか。なぜ、もっと積極的に向かう自分がそこにいなかったのか。今でも後悔しています。」(本人)
大久保監督は、高校時代の猿田氏を「誰からも好かれるタイプで人間性はピカイチ。目標に向かって人一倍努力する選手だった。周りがついて行きたくなるようなリーダーシップがある。」と振り返る。
目標は甲子園から神宮へ移ることになる。
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野球に打ち込んで、勉強は疎かになった。当時の慶応大学にはスポーツ推薦がなく、一般入試で挑んだ。必死に勉強したが、合格するには二年を要した。
「野球の練習も厳しかったですが、勉強も大変でした。今年も合格できなかったらどうしようという不安の中、合格できたときは感無量でした。何事も頑張らなければ報われないということを実感しましたね。」
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入学してすぐに憧れの体育会野球部の門を叩いた。浪人中のブランク取り戻すべくトレーニングに打ち込んだ。しかし、夏休みの練習中左足首を骨折、3ヶ月の入院生活を余儀なくされた。
「その時はさすがに夢が潰えたかと。」と思った。
それでも退院後プール、ジムに通い詰め回復し、2年の春からベンチ入りを果たした。3年春にはレギュラーとして憧れの土を踏むことができる、と思っていた矢先のこと、開幕直前に持病の椎間板ヘルニアが悪化した。心が折れかけたが、「ここで立ち止まっているわけにはいかない。」、治療と並行して肉体改造に取り組んだ。記憶にないほどの練習にも励んだ。
結果、その秋、早稲田、法政、明治の甲子園経験者らと激しいタイトル争いを繰り広げて首位打者に輝いた。
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同じく2浪して入学した鈴木哲氏(西武など)、大森剛氏(巨人など)、志村亮氏らとともに、87年春季リーグと全日本大学野球選手権での優勝に貢献した。
主将として、それまで、レギュラーだけの参加だった激励会などで、レギュラーと補欠の垣根も取っ払った。
後輩の山神裕氏は、「春のリーグ戦初戦、試合前のノック終了後のベンチで、私は猿田さんに厳しく“気合いが足りない”と説教されました。不本意でしたが受け入れました。試合終了後、猿田主将より“悪かったな、見せしめにして、チームを引き締めるためだ、分かってくれ”と一言もらいました。このフォローができるのが猿田さんです。この年のリーグ戦は2年ぶりの優勝、全国制覇も果たしました。私の大学同期も、猿田さんが人望を集められるのは、ベンチに入れないメンバーなど裏方の人々のこともちゃんと見ていてくれ、嘘のない感謝の気持ちを常に持ち続けてくれているからと口を揃えて言います。」と語る。
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日米大学選手権に選ばれた全日本の顔ぶれもそうそうたるメンバーがそろった。鈴木、志村、大森のほか、長嶋一茂(ヤクルトー巨人) 、古田敦也(ヤクルト)、野村謙二郎(広島)、大豊泰昭(中日)、武田一浩(日ハム)、渡辺正和(ダイエー)、矢作公一(日ハム)、大塚孝二(西武)ら、後にプロ野球で活躍する彼らを主将としてまとめあげた。
米国で開催された最終戦、5―4と追う展開になった九回、「速すぎて見えない」とチームメートが苦戦した米投手の初球をジャストミート、逆転サヨナラ本塁打を放った。
2018年にTBSにて『消えた天才』という番組が放映された。各界の”超一流”が人生で衝撃を受けた”天才”の今を追う、という内容である。
”超一流”の長島一茂氏が、大学時代に絶対に勝てなかった”天才”に選んだのが、猿田和三であった。
「一茂さんが猿田さんを選んだ理由は、日本にとって唯一の勝利をもたらした逆転サヨナラホームランを猿田さんが放ったという野球の実力もさることながら、チームをまとめるリーダーシップや人柄でした。両校の主将としての1年間の付き合いと、日本代表としてともに戦った1~2週間程度の短い期間の中で”そこ”が分かった一茂さんは流石超一流です。」(前出山神氏)長嶋氏は「ひとが活躍して喜べたのは猿田さんが初めて」、また、猿田が秋田県の財政課長であると知り、「もっと大きなステージで活躍すべき男だと思う。」と番組で語っている。
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プロ野球のドラフト候補にも挙がり、また、待遇の良い大手企業からの勧誘も多々ある中で、秋田に戻る決断をした。
進路に悩んでいた3年の頃、野球部長に相談すると、こんな答えが返ってきた。「地方公務員、いいんじゃないの?知事は選挙に出ないとなれないけど、頑張れば副知事になれるんだよ」。背中を押され、秋田県庁に入った。
大学時代から母校の秋田高を訪れてノックを打つなど、地元愛が強かった。
「生まれ育った秋田のことが好きなんですね。県民歌にあるように"詩の国秋田""豊けき秋田"を誇りに思っています。大学を卒業して故郷に戻って来られるような環境を作るのが使命だと感じています。」と現在の心境を語る。
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県庁職員の最初の職場は地方課。
「様々な行政法と、その政令、規則、運用通知、問答集などの本が書棚に山のようにあって、公務員の基本はこれだと言われ、めまいがしましたね。また、知事や県議会議員と議論できるのは50代で課長になってからだと聞いて、これから長い道のりだなとも思いました。」
二年目に仙北農林事務所に異動し、アパート暮らしを始める。「野球のない生活は、やはり寂しかったですね。」(本人)当時の上司は、「猿田は、話題が豊富で話もうまく、いつも職場を和ませていました。高校卒業したての若い新規採用職員にも優しく、体育会のイメージではなかったですね。農業団体の方々にも、腰が低くて明るい性格なので気に入られていました。秋田米を野球人脈を辿って売り込んでいました。」と語る。
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1995年に阪神・淡路大震災が発生。秋田県は、震災の現場に県職員を派遣することを決めた。
「誰もが尻込みする中、手を挙げてくれたのが猿田君です。そういう性分なんですね。助かりました。」と当時の同僚は言う。
「若かったし、体力には自信があったので。大災害の被災現場を目の当たりにした経験は今もいきています。」(本人)
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財政課は、各部局の予算要求を、事業の内容や効果を見極めて査定し、限られた収入の中で最大の効果を得られるような予算を編成し、その執行を管理する、行政組織の要の部門である。財政課長時代を含め、通算11年間、所属している。
「財政課の査定担当者は、ダメ、カットとばかり言う傾向になりがちですが、猿田君は、要求が通るにはどうすればよいか示唆してくれました。いい政策を一緒につくるというタイプでしたね。」(職員OB)
「財政課では、県全体の施策や事業の理解を深められますし、県議会と執行部の議論の内容もすぐに入ってきます。県政全般を勉強できましたが、残業が多くて、家族には寂しい思いをさせたかもしれません。」(本人)
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2016年、51歳で産業集積課長に昇任、産業政策課長、商工労働部次長を経て、2020年商工労働部長に登用され、2021年に議員全員の賛成で県議会の同意を得て副知事に就任した。
鈴木哲氏(西武など)は「大学時代から人望が厚く求心力のあるリーダーだった。現職の知事さんの信頼も厚いでしょう。秋田、東北の活性化に尽力してほしい。」とエールを送った。
石井浩郎氏は「副知事への抜擢はまさに適材適所。野球で培ったリーダーシップと信頼される人柄ゆえで、ともに野球に生きた者として我がことのようにうれしい。」とコメントしている。 産業集積課長に就いて以来、産業振興の分野を担ってきた。
2016年以降9年間の誘致企業数は、その前10年間の誘致企業数の倍以上になり、昨年度は過去30年で最多の誘致件数になった。
秋田県新エネルギー産業戦略を進めてきた結果、本県は再生可能エネルギーの先進県になりつつあり、そして今、約50万m2規模の再エネ団地の造成が進められている。関連産業の誘致が喫緊の課題となっている。
「役職が上がるにつれ、また年齢を重ねるにつれ、企業のトップとの関係づくりが上手くいくようになりました。私の人生で培ってきた人脈を引き継げればいいのですが、人間関係は事務的に引き継げるようなものではないのでね。自分がやるしかないのかなと。」
そして、猿田和三は、愛する秋田のために、新たなステージに進む決意をしたのである。
野球を経験したことで仕事に生かされていることは「前向きにいく」こと。人生、いい時もあれば、悪い時もある。
物事に対して常に前向きに、肯定的にとらえることを学んだ。人間関係もしかり、積極的に相手の懐に踏み込んでいくことが重要で、流れを自分に呼び込むことができるはず。そしてチームプレーの重要性は野球も仕事も、いわずもがなであり、まさに私にとって野球とは「人生の土台」である。
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